忍者ブログ

Eternal full moon/under_blog こそりとdeepに語ってます、はい。

カレンダー
04 2024/05 06
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31
PROFILE
HN:
夜羽(よわ)
性別:
女性
趣味:
可愛い雑貨を集めること
自己紹介:
■wj系の趣味サイトを運営。

■サイトからのみお越しいただけます。ここからサイトへは入れません。

■他人の家族の日常に興味のない方はお引き取り下さいね。
リンク
ブログ内検索
カウンター
アクセス解析
Script:Ninja Blog 
Design by:タイムカプセル
忍者ブログ [PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

日吉のラストが決まらなくて書いては直し、直しては考え込むの繰り返し。
いろいろなパターンを考えてるうちにかなり昔のことをふと思い出した。


高校生の頃、卒業間近の頃だったような気がする。
ひとつの見合い話が持ち込まれた。
前回の「零れていく・・・あの頃」でお話した伯父からのもので正しくは伯母の知り合いからの話だった。
伯母の実家のある土地で有名な企業を営んでいるらしい。
大学を卒業して家業の一員となる長男で比較的年も近いということと、向こうも商売をしている家の娘ということに加えて、土地の名士の家の出である伯母の紹介(それも姪)ということでメリットも感じていたのだろう、話はとんとん拍子で纏まっていった。


まだ、数回目のお見合いでそれまで全て両親が断ってくれていたが今回はなんだかまわりの様子が違うと私も感じていた。
可もなく不可もない容姿も普通の人だというが常套句のように「普通が一番」といわれると若かった私はそんなものかなと納得したりしていた。


しかしお見合いの日時や場所がなかなか連絡されないことを両親が気にしはじめたとき伯父夫婦を通じて先方が断りを入れてきた。
話はこうだった。

その息子は大学時代からお付き合いをしている女性がいたが、後継者の自分に両親はじめまわりが過度の期待をしているために言い出せなかったらしい。
そこに断りきれない私との見合い話が持ち上がったために意を決して打ち明けたとの事だった。

気にしているのは伯母とそれ以上に恐縮している相手の両親で、普通なら恥をかかされたと両親は激怒するのだろうけど一族の中では唯一恋愛結婚の両親はお見合いの作法礼法にひときわ疎く仲人任せのような感じだったので全く気にしていなかった。
逆に十八歳で伯父に嫁いだ伯母は自分の姿を私に映していたらしくとても熱心だったけれど。

この頃は私もお見合いに対してあまり自分の意思というものが無く相手と会いはするけれど別に何を思うことも無かったというのが本当のところ。
ただ、帰宅してから今日の人はこんな人でこんな話をしたこんなことを言っていた、こんなところがちょっと気になったなどと両親に報告するとその内容によっ
て両親が判断して断っていたふしがある。



銀座で働くようになってから私はひとつの質問の答えによって相手を振り落とすことに決めた。
「お仕事は、お好きですか?」
不思議な事に皆この質問に一瞬渋い顔をする。
いやぁ、上司が使えないやつで・・・とか俺が部署を回してるようなもんですよ、とか朝起きられませんねぇ、などと言う人がほとんどで小娘ながら私は内心呆
れていた。

その中で今の主人だけが即答した。
「好きですよ、今が一番面白い。」
(あとで聞いたところによるとこの頃自分が営業で取った大きな仕事が契約に至った時期だった)


さて、その幻の見合い相手は両親を説得してその彼女と結婚した。
好きな相手と結婚することが幸せなんだと当たり前のことを私は初めて知った、両親や近しい親族が認める人と結婚すればいいのだと思っていたから。

恋愛体質とか見合い体質があるとしたら私は間違いなく見合い体質なんだと思う。
恋愛に対して私は免疫らしきものが無い。
当時の私を思うと男性から見てこれほどつまらない女はいないんじゃないかと思う。
逆に親友のYちゃんは恋愛体質の最たるもので彼女と言葉を交わした男性は九割方、彼女に惹かれていく。
なのに、そんなYちゃんと一緒にいることで私をおとなしくて落ち着いていていいと好意を持ってくれる人もいた。
Yちゃんも夜羽は私と違って浮ついたように見られないからうらやましいという。
お互いないものねだり同士が仲良くしていることでお互いのかけているピースを補っていたのかもしれない。

Yちゃんは決して男の人に媚びようとか自分に振り向かせようと言う気持ちはなく、自然に会話しているけれど元来甘え上手で人懐っこい性格なので、いい意味で男好きする娘だった。
広く言えば「人たらし」的な女の子だった。

Yちゃんのことはこちらをご参考までに。
(mainのほうにも時々登場)
http://yowa1020.blog.shinobi.jp/Entry/63/


なんか、思い出話ばかりですみません。
でも、ちょっと思い出したので書いてみました。

PR

 

私にとって今の銀座は銀座ではない。
まず、ティーンエイジは歩いていなかった・・・いたとしても必ず両親なり大人と連れ立っていた。

コンビニやファミレスはなくチェーン店も存在しなかった。
5丁目のドラッグストアのチェーン店の場所は私がお気に入りの書店のひとつだった「近藤書店」だった。
ユニクロの新店舗は一階が最新のDCブランドを提供するブディック、二階はサンローランだった。
4丁目の大通り沿いに「キンタロウ」と言う玩具屋があった事をどれだけの人が記憶しているだろう。
主人と結婚してここでバク転する子犬のヌイグルミを買った、子供が生まれたらここでオモチャを買ってあげよう。
そんな事を言いあっていたのにそれからまもなく閉店した。
一世紀を超える老舗の店、バブルの崩壊は銀座に容赦がなかった。

***


「私どもがお預かりしているお嬢さま(奥さま)ですので・・・」
今も昔も、社員の事をこんな風に言ってくれる会社があるだろうか?

私が世間を知るために一度だけ勤めた会社。
時代は切れる寸前の電球が最後に一番の光をを放つかのように足掻いたバブル末期。
宵越しの金は持たない・・・酔狂な言葉が現実だった時代。
誰もがお金を使うことに夢中になった時代。


そう、金余りの時代・・・私はそんな夢物語を目の当たりにしたひとりだ。

11:00から19:00までの勤務。
通勤手段は「新幹線」
仕事は・・・一番簡単に言えば、お話し相手。
それだけで、普通のサラリーマン家庭が一ヶ月十分に暮らしていけるだけのお給料が頂けた。


伯父の口添えで面接に向かった私は化粧直しに入ったレストルームの豪華さもさることながら、同じ目的で鏡に向かう少し年上の女性たちに圧倒される。

リップスティックは白地に紺のラインとCDの文字「ディオール」
(このあと現在のものにデザインチェンジされる)

一目でエルメスとわかるスカート。
全身シャネルの人も。

バックはエルメスのケリー、シャネルのクラッチ型のショルダー。
時計はロレックス、ビアジュ、コルム・・・
大ぶりのフープのピアス、半貴石の周りをダイヤが埋め込まれたリングとカルティエのスリーゴールドのピンキーリング。

ヴィトンのパピヨンなんて私だけ。
ケリースポーツかプラダにすれば良かったと思ってももう遅い。

「あら、プレスト・ダ・モゼルの新作よね?」
前髪を逆立てたロングヘアの女の人が私を見て聞いた。
桜色のシルクが少し入った生地のワンピースは白いパイピングだけがアクセントになっているがこの中では明らかに地味なものだ。
でもブランドは確かに彼女が言うものに間違いない、形だけは・・・


このワンピースは「JJ」に載っていたものをそっくりそのままに母が作ったものだから。
母は若いときはお針子をしていて結婚してから趣味と実益を兼ねて家で縫製の仕事をしていた。
田舎では珍しい腕の良さを買われて有名人の衣装なども任されることもある。

その母の手製を小さい頃から着せられていた私は既製品の着心地の悪さと言ったらなかった。。
どんなに綺麗に直してもデザインの崩れは免れないし、だったら最初から自分の身体にぴったりのものを着たほうが良い。
このワンピースはウエストの絞り具合も撫で肩の私に合わせた袖付けも綺麗に出来上がっていたからお気に入りだった。

─ 案外、目は肥えていないのね、

なんだか笑い出しそうになった事を覚えている。

結局、そのときに入社したのは私一人。
他の人たちは身内に大臣がいるとか検察のおエライさんがいるとか散々言ってたのに。


店に私が新人として入った事がまず最初に三/越に伝わったらしく、関連部門の部長職の人が部下を数人連れて来店した。
二十歳そこそこの私に丁寧に腰を折った事にただ驚くばかりだったが私もバカではない。
この人たちが「この店に勤める私」にしたことだと認識する。

女性は私を含めて六人でうち既婚者はふたり。
そのうちのひとりであるNさんは娘くらいの齢の私に何かと目に掛けてくれた。
制服を着ていなければ良家の奥様の雰囲気で信州訛り残る上品な方だ。

貸ビル業を営む家の末娘(この人は宝塚出身)。
誰でも知っている塗料会社の経営者一族の娘。(彼女は家業を「うちはペンキ屋だから、」と言っていた。)
青森出身の歯科医の娘は両親がここの大得意だという縁で入社したと言う。
千葉の海沿いの田舎の地主の次女。
そんな人たちに比べて私の出自など言えたものではない。

Nさんは岐阜の由緒ある旧家のお嬢さまでシカゴの留学から帰った翌日に結婚式を挙げさせられたと嘘のような本当の話があって。
黙って式は挙げたものの無性に腹が立って終ってから帰ろうとしたときにご主人が
「もう少し、一緒にいてください。」と言ったので、そのまま二十年以上も一緒にいることになったと笑う。

一転したのは長男が生死をさまよう大事故にあったときに「死亡承諾書」にサインしたことだと言っていた。
「子供が死んでもかまわない」と言う事を承諾して何かが吹っ切れてしまったと。
確かに、そんな転機でもなければ外資系の企業の取締役の奥さまが外に出るはずがない。


私だけが英語を話せなかったのでNさんは常套句や会話を時々教えてくれた。
その甲斐あってか、通勤の途中に話しかけられても少し自信を持って話すことが出来たが、お店での些細な事が引き金になって私は英語と使うのを意固地なまでに拒むようになる。
(この件はまた後ほど)

店に在籍することで得したことが多かったのは真実だけれど、その分嫌な思いも多かった。
丁度、半年ほど経って店にも銀座にもなじんできた頃だった。