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今、梨園はその選択に揺れている。『古典を守るだけが尊いのか、伝統をより大きな芸術の世界へ押し進めることが良いのか』と。
しかし、私達観客が、その狭間に立って感じるのは、極論すれば後者の道をひた走る革命児(猿之助丈)と、それに対する梨園のそれこそ蔑視とその才能への嫉妬、羨望の図である。


あの「ヤマトタケル」の上演は、かたくなに古典を守る梨園の重鎮達にうとまれたに違いない。
彼らは怖いのだ。
猿之助丈を異端と呼ぶ劇評家も含めて。彼らは新しい試みが、古典を、自分達の守備範囲を超えてしまうことが恐ろしいのだ。
不可能を可能にした猿之助丈の才能を認めるのが怖いのだ。


だから、「歌舞伎ではない」と決めてかかる。
夢を成就した一人の役者を非難することでわが身を守ろうとする。
そして、猿之助丈と猿之助丈の創り出す舞台に喝采を贈る人たちに対してまで、侮蔑を込めた物言いをする。

 

 

確かに、私はまだ目に見えるものしか感動しない。
役者のアピールに応えることしかできない。だが、それは瞬間、瞬間にぱっとはじける素直な気持ちなのだ。
しかし、多くの評論家諸氏はいかがなものだろう。

彼らは。演技のひとつひとつがその瞬間に消えてしまう儚い(だからこそ今が愛しく貴重な)舞台だけを見つめるのではなく、むしろその後ろにある、もっと確かで(?)ゆるぎないもの(?)により多く左右されて観ているのではないか。「名門」とか「人間国宝」とかそんな言葉にひれ伏しているのではないか。
たとえば「芸が格段の差だな」という言葉が気に障った前述の渡辺氏の場合も、その会話の内容が梅幸丈と猿之助丈を比べたものだったからではないのか。



芸神・六代目菊五郎の養子であり、後継者でもある人間国宝の梅幸丈よりも、たとえ名跡を継いだとしても異端児扱いを受けてきた猿之助丈の方が芸が上だと聞かされた事について「素人はこれだから困る」と言いたげなのだ。もっと突き詰めて言えば老夫婦の会話が團十郎丈、菊五郎丈、あるいは勘九郎丈などが相手であれば「梅幸丈に劣らぬ演技を勤めている」にガラリと変わったかもしれない。

昨年の「リュウオー」を私は一階の三列目で観ていた。
カーテンコールの時、後ろから押し寄せるどよめきに、私は驚いて振り向いた。
二階、三階の人々が総立ちになって拍手を送っていた。
それはいつまでも鳴り止まぬことがなかった。



このような観客の素直な感情にまでも注文をつけようとする劇評家の態度に私は許せないものを感じる。さらに「芸がわかっているのか」とたたみかけるのに至っては劇評ではない。
「芸のわからぬ客は来るな」というのも同然で口が過ぎる。好きだから観たい― という最も偽りない感情を持って行動する人々を「芸を知らない」と書くなどは、あまりに傲慢ではないか。
たとえ、劇評家がどんな賛美を書こうと、またどんな悪評を書こうとも、自分を見つめる観客の眼差しがもっとも正しく自分を評価してくれていることを知っている役者がいる。

市川猿之助丈である。

三世猿之助は名を残す、必ず残す。
それは今も囁かれている『猿之助歌舞伎』と共に。
現在この言葉は、よくも悪くも使われる。多くの人は、ケレン味のある歌舞伎の事をさしているようだが、、あの臨場感あふれる舞台を観たらケレンなどという言葉は吹き飛んでしまうことだろう。



 


また、役者魂は後進にも注がれている。「二十一世紀歌舞伎組」と呼ばれる猿之助丈指導、演出の若手歌舞伎である。これも異端の芝居ととられていることだろうが、猿之助丈は自ら引き寄せんばかりに二十一世紀へ、若い役者達へ手をさしのべている。そして、丈の献身に応えようと、若い役者達が懸命に勉強し、努力している姿は爽やかで美しい。

にもかかわらず、この二十一世紀歌舞伎組に参加している中村信二郎丈を評して最近、「猿之助丈からそろそろ離れた方が良いのでは?」といったようなコメントが入ったりする。
現在、猿之助丈のもとに萬屋の御曹司である丈がいることは、梨園全体の風潮から言えばマイナスとみるのだろうか。
しかし、信二郎丈は、猿之助丈の下で芝居がしたいと決めているように思える。事実「伊吹山のヤマトヤケル」では、主役は部屋子である右近丈で会ったが、それでも丈は「参加したい」と希望したという。名門の出身者は主役を演じてしかるべき、という習いがここでは通用しない。
だからこそ、真の実力を試すことも発揮することも出来る。
なんとエキサイティングな空間ではないか。

そして、「雪之丞変化2001年」で信二郎丈は主役を射止めた。
丈はまさに今、この空間身を置くことで一番輝いている役者である。
二十一世紀歌舞伎組が、異端、あるいは革新的なものとして人々の目に映らなくなったときが、猿之助丈の目指しているあらゆるものが確立されるときなのかも知れない。


猿之助丈は美しい野心を抱いた役者だ。


それ故に出るクイと目され今もって打たれ続けているらしい。
それは他に並ぶものがない程数多くの賞を得ていながら何故か未だに芸術院賞を受賞していない、ということひとつを考えて見てもわかることである。
しかし、猿之助丈には自分自身の役者人生を抱えて時代と刺し違える覚悟がある。その潔さgがあるからこそ、丈の舞台はあれほど魅力的なのだろう。
政争の道具でしかないかないような芸術院賞なら、猿之助丈は無冠でもいい。丈への賞賛は私達観客がおくり続ける。

猿之助丈があくなくチャレンジを続ける限り―
二十一世紀歌舞伎組が、胸ときめく舞台を演じ続ける限り―

私はまだまだ観続ける。
鳴り止まぬ拍手を送る観客のひとりでいるために。



1991年「翔」寄稿

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